Concept

何気なく見ている風景、おぼろげな記憶、忘れかけていた感触、

つながり、もつれ、ほぐれて、また、つながり、、

そんな繰り返しの日々、同じではない日常を表現していけたら。


Scenery what I casually see, dim memory,

Almost forgot the sense of touch,

link, tangle, disentangle, and link again...

These are repeated everyday, but not same day I would like to represent.

18.5.20

「仮定の絵画 長尾圭の場合」 平田剛志

 デジタルは痕跡に残らない。例えば、壁や看板にポスターなどの掲示物が剥がされた跡がある。貼ってあるのか、風化、劣化して消えているのか。壁や紙に残る微かな痕跡は文字やかたち、時間、記憶、行為などを想像させる。あるいは、ノートやメモ帳に残る書き損じや書き間違い、消せる筆記具の摩擦跡、修正テープの消し跡なども同じだ。これらはデジタルサイネージやスマートフォンのメモ帳が主流の現代では見ることが稀な存在の痕跡だ。なぜなら、デジタルでは誤りや修正、消去の痕跡は残らないからだ。

 長尾圭の描く絵画もまた何が描かれているのか、さまざまな想像や連想をさせる。その画面は淡い色彩や線が交じり合い、何かのかたちのようで断片的、曖昧模糊としている。描いているのか消しているのか。構築しているのか壊しているのか、矛盾する要素が混在する抽象絵画だ。
 長尾は1990年代から現在まで大阪を拠点に発表を行ってきた。筆者が作品を見始めた2010年頃は木の枝や細胞、臓器を思わせるかたちや小石のようなドットの集積などが描かれていた。近年では装飾的、図像的なイメージは消え、さまざまなタッチによる描線と色面、余白が絡み合う絵画へと移行してきた。
 奈良・ギャラリー勇斎で開催された個展「for instance」では、ドローイング2点含めて計13点が展示されたが、以前よりもストロークや色彩が大胆に交わる絵画となっていた。
 本展の特徴の一つは、《かいろう》や《となりあわせ》、《そこかも》、《つじつま》などに見られるように、マスキング液の使用によって色面や線描が突然断ち消えたかのように、隙間・余白が差し込まれていることだ。何かのかたちを成していた線と色彩が分離してばらばらになったのか。あるいは、もとから散り散りに描かれたようでもある。線は軽やかに動き、色の塗りむらや重なりあいが複雑で重層的な画面を構成している。
 例えば、《つじつま》は波線のように柔らかい青や緑のストロークと型抜きしたようなL字や三角型の線や余白が画面に緊張感をもたらしている。《そぞろ》は、上方に青い弓なりの線が2本縦に引かれ、左側には緑のストロークが下方に向けて木立のように描かれる。伸びのある線や色の動きに残る掠れや塗りむら、重なり、余白などが関係をもち、視線は画面をさまよう。

 このような長尾の絵画はどのように描かれるのだろか。実は、長尾は「抽象」を描いているわけではない。絵画制作の前に日用品によるオブジェを制作、写真撮影し、その写真をもとに描いているからだ。
 しかし、長尾にとって絵画の目的はオブジェの描写ではない。描く過程は複雑である。まず、プリントアウトした写真の上にトレーシングペーパーを重ねて、下層にあるかたちや線を意識せず、何ものでもない形体へと抽出する。次にトレースした紙をカーボン紙に挟み画用紙などに転写する。初めのオブジェは、立体から平面の写真、トレーシングペーパー、カーボン紙へと素材を変えながら、線やかたちの転写、抽出が繰返される。
 続いて転写した画用紙をもとに、キャンバスに鉛筆や木炭で写し描く。ここでマスキング液を描いたかたちに沿って塗り、水彩絵具を描き重ねる。その後、マスキング液を剥がすと、その上に描かれていた絵具の一部が取り去られ、隠れていた下地が前景化する。本展で最初に感じた線や色彩の隙間や余白は、このマスキング液の効果を生かしたものだったのだ。以降は油絵具や水彩絵具、マスキングテープなどを用いて、画材の反発や反応を取り込みながら描いていくという。
 以上のように長尾の絵画はもとのイメージをいくつもの工程で複雑なレイヤーを作り、線やかたちを取捨選択、転写し、足し算と引き算を繰り返して描かれる。さながらパソコン操作におけるカット&ペースト、コピー&ペーストのようだ。長尾の絵画制作からは、具象と抽象、絵画と写真、偶然、転写と消去、画家の身体性など多くのキーワードを見いだせるだろう。

 このような長尾のモデル=オブジェをもとに、独自の技法・画材によって絵画を構築、解体する手法は、アンリ・マティス(1869-1954)の絵画を想起させる。
 マティスはフォービスム時代から晩年の切り絵まで終生さまざまな絵画の技法を試みてきた。「色彩の魔術師」と言われる平面的、装飾的な画風で知られているマティスの生み出した絵画には、マスキングこそ使ってないものの掻き落としや描き方の不統一、描き直し、消し跡、線と色彩のずれ、塗り重ね、塗り直し、塗り残しなど多くの技法を駆使している。
 例えば、掻き落としgrattageがある。これは、塗られた色彩を後から引掻いて削り落とし、下塗りをあらわにする描法である。《ノートル=ダムの眺め(Une vue de Notre-Dame)》(1914、油彩/キャンバス、ニューヨーク近代美術館蔵)は、青い背景のなかに窓枠のようなノートル=ダム大聖堂が描かれ、周囲に縦や横、斜めに黒い線が引かれた抽象画だが、一部に掻き落としや塗り残しの痕跡を確認できる
 マティスの絵画にはモデルや風景を描くときも抽象的な描画が加わる。《オルガ・メルソン(Orga Merson)》(1911、油彩/キャンヴァス、ヒューストン美術館蔵)では、女性のあごの下から左太腿、左わきの下から腰にかけて2本の黒い線を大胆に引き、輪郭線を独立した線へと自律させた。《日差し、トリヴォーの森》(1917、油彩/キャンヴァス、個人蔵)には、森の緑や道路などが抽象的なストロークで描かれ、《座るバラ色の裸婦》(1935-36、油彩/キャンヴァス、ポンピドゥーセンター・国立近代美術館蔵)は、人物像を楕円形へと還元し、身体には描き直しによる色ムラが残る。いずれも再現性から逸脱した色彩と線描が描かれるのが特徴だ。

 では、なぜマティスや長尾はこのように複雑なやり方で絵画を描くのだろうか。それは、イメージの完成ではなく未完成、過程の痕跡を画面にとどめるためではないだろうか。
 これまでの絵画は、写実絵画であればモチーフの再現的描写、抽象絵画なら瞬間的なイメージの把握や絵具の物質性などを探究してきた。対して、マティスはフォーヴィスムに見られるように、再現性や写実性に縛られない色彩の効果や表現、感情に即した色彩表現を探究した。加えて、描画の消去や修正、描き直しの逡巡など、絵画の画面上に起こる出来事の流れを描き残した。
 長尾もまたマティスのこうした絵画観を継承し、描く行為とその画面上に起こる不安定で曖昧な生成変化を描こうとしているのではないか。マスキング液の使用によって、地と図、下地と描画面は予期せぬかたちに組み換えられ、安定した画面構造を揺さぶる。この足し算と引き算に「答え」はない。いや、長尾の絵画は「答え」を出さない。絵画を見るたび、異なる印象をもたらすからだ。むしろ、正しい理論や技法、対象や再現から離れた絵画の揺らぎ、感情や身体、試行錯誤の不安定さこそ新たなかたちを予感させるのだ。
 本展のタイトル「for instance」とは、「例えば、手近な例」を意味する。このタイトルにも長尾の絵画観が表れている。なぜなら、長尾の絵画とは色や線で作られる絵画の完成した「かたち」ではなく、個別的な具体例として差し出される仮定の絵画だからだ。いま「絵画」とは何か。思考や見方を断定できない時代、長尾の絵画は私たちが絵画を思考する貴重な一例としてある。

長尾圭 展  for instance
20200218()0301()
ギャラリー勇斎

平田剛志 HIRATA Takeshi
美術批評。キュレーション。1979年東京都生まれ。2004年、多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。

主な寄稿に京都芸術センター通信、京都新聞、パンのパン04Gallery PARCOギャラリーeyesなど。

DIRECTION
https://newsphere.jp/direction/20200514-1/

All Photos by Misa Nakagaki